2009年06月17日

壁(かべ、wall)とは、空間を仕切り区画を

壁(かべ、wall)とは、空間を仕切り区画を形成するために設けられる、垂直(またはそれに近い)方向に立つ構造物である。建築物の外周を囲んで内と外の空間を区切るもの(外周壁)や、建築物内部を仕切り部屋を作るもの(間仕切り壁)があり、ベルリンの壁のように二つの区画を隔てる建築物自体を指す場合もある。

日本語の「壁」は狭義には建造物を構成する外壁や内部を間仕切る内壁のみを指すが、広義には屋外で領域を区切るための「塀」と同義で使われることも多い。塀とほぼ同じ意味の「垣」は近年では「石垣」や「生け垣」など、もっぱら限定された意味で用いられる。区画を仕切る物としては、他に「柵」があるが、これは木製(近年は金属製なども)の柱を複数本立て、貫(ぬき)を通して往来を遮断する物をいう。ただし、最近は有刺鉄線を使った物などものなども柵というが、基本的にはお互いがすき間から確認できるような物に対して使われ、表面が塗り固められている物には「壁」や「塀」を用いるのが一般的である。古語では家屋の内外壁を「かへ(処重)」、屋外を仕切る物は一般に「き(柵、垣、城)」と呼ばれたようであり、塀(ヘイ)や柵(サク)の語は大陸伝来の漢語である。

壁の最も大きな機能は「遮断」である。人や動物、風雨、光・音・熱などの外部からの侵入を防ぐ目的で設けられることが多い。一般に外周壁では風雨や断熱、間仕切り壁では音、野外に設けられる壁では人の遮断が重要視される。
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使用される場所や状況に応じて特別の機能を持たせた壁もある。遮音性を特に高めた防音壁、音の反響を防ぐ吸音壁、火事の際に延焼を防ぐ防火壁、放射線が漏れるのを防ぐ放射線遮蔽壁、「収納」と「部屋を仕切る」機能が融合した収納壁などがある。

建築物の外周壁には、構造体の一部として建物を支える機能を持つ場合と、その機能を持ない場合がある。前者の場合は耐力壁(ベアリングウォール)、後者の場合には帳壁、非耐力壁(カーテンウォール)と呼ばれる。日本建築では木材によって柱や梁を組んで建物を支えるため非耐力壁が多く使われてきた。一方西洋建築では石や煉瓦を積み上げた壁が古くから使われ、屋根を支える耐力壁としての機能が風雨の遮断とともに重要であった。しかし鉄骨造建築の出現以来、非耐力壁構造は欧米においても一般的なものとなっており、特に高層建築に多く用いられている。

その他にも様々な役割を持つ壁がある。たとえば岸壁は船舶が接岸する場所を確保するために、垂直の壁で陸地の土砂を支えるのが目的である。また擁壁は切り通しや盛り土の法面の崩落を防ぐために設けられるものである。

2009年05月31日

中国の南北分裂

こうして金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の大臣であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。

その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金はこれに対する懲罰を名目として再度の南征を開始し、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。

1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉とし、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力後退の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
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これより前、1149年に先代の熙宗を殺して帝位についた4代海陵王は宗族や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、都を会寧から燕京に遷都して中央集権国家樹立を目指す改革を進めていた。1161年、海陵王は中国の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。金軍は60万と号する大軍であったが、慣れない水戦に苦戦した。その間に各地で契丹族の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても強硬に宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有職者たちが東京(遼陽)にいた皇族の烏禄を擁立し、金の人々は雪崩を打って烏禄に味方した。海陵王は軍中で殺害され、烏禄が即位して世宗となった。

世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、和約を結んだ(乾道和約)。そして契丹族の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。

同時期に南宋でこちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、この後40年に渡って両国の間では平和が保たれたので、金は繁栄と安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小尭舜」と称えられた。だが、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。

しかし平和が長引き、女真人の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は漢化の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、四書五経などの漢文献の女真文字へ翻訳・女真語による科挙の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。

2009年04月27日

大腸は小腸から続く部分で

大腸は小腸から続く部分で、長さは約1.5m。口側から盲腸、結腸(上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸)、直腸に分けられる。大腸は小腸よりも太いが、壁は比較的薄い。

盲腸は、大腸の始まりの部分で、右下腹部に位置している。回腸が開口しており、開口部を回盲口と呼ぶ。回盲口には、回盲弁と呼ばれるヒダ状の弁があり、大腸に入った食物が小腸へ逆流するのを防止している。盲腸の後壁からは、指状の構造の虫垂が突出している。

上行結腸は、盲腸から引き続き体の右側を上行している部分である。肝臓の下面で左へと曲がっており、横行結腸へと移行する。横行結腸は左へと横走し、脾臓の下端で下方へと屈曲して下行結腸となる。下行結腸は体の左側を下行し、左下腹部でS状結腸へと移行する。S状結腸は可動性に富み、大きく弯曲して走行している。結腸表面には、大網ヒモ、間膜ヒモ、自由ヒモと呼ばれる、縦走する3本のヒモ状の構造が存在している。これらは縦走筋がヒモ状に集まったものであり、この3本のヒモを併せて結腸ヒモと呼ぶ。 直腸は第3仙椎の高さで、S状結腸から続いており、仙骨前面を下行し、肛門で外部に開いている。直腸の内面には直腸横ヒダと呼ばれるヒダが見られる。
小腸:十二指腸では、総胆管を通った胆液や膵管を通った膵液が出て、消化の働きをする。空腸では、腸液が分泌される。回腸では、柔突起で養分が吸収される。また、食物とともに飲み込まれた空気などの気体も、ここで吸収される。
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大腸:栄養分が吸収された後の食物が運ばれ水分を吸収する。もしここに問題があると、下痢になる可能性が高くなる。蠕動運動と逆蠕動運動によって、小腸から運ばれる内容物をある一定の時間とどめておくことができ、水分を効率よく吸収できる仕組みになっている。しかし、ここに内容物がとどまる時間が長すぎると、水分の吸収が過剰になされ便秘を引き起こす。これらの運動は自律神経系に支配されており、直接には大脳の支配を受けない。ちなみに、虫垂は昔は役割があったようだが、今はあまり意味の無い存在となっている。


2009年04月12日

訓練としてのシミュレーション

シミュレーションは一般市民や兵士の訓練に使われることが多い。これは、実際の装置や兵器を訓練に使用するのがコスト的に高価すぎたり、単に非常に危険であるという理由からである。この場合、安全な仮想環境で意味の有る訓練が行われる。特に、実際なら生命に関わるような失敗をしても許される点は重要である。

訓練におけるシミュレーションは3つに分類される。

「ライブ」シミュレーション - 実地でシミュレートされた装備を身につけた人間が訓練を行う。
「仮想」シミュレーション - 仮想環境でシミュレートされた装備を身につけた人間が訓練を行う。
「構築型」シミュレーション - 仮想環境でシミュレートされた装備を身につけたシミュレートされた人間が訓練を行う。これは、ウォーゲームと呼ばれるものが進化したものである。

フライトシミュレータ [編集]
フライトシミュレータは、地上で航空機の操縦士を訓練するのに使われる。この場合、操縦士がシミュレートされた航空機を墜落させても生命に危険はない。特に実地では訓練が困難な危険な状況を設定して訓練することが可能である。例えば、エンジンが停止した状態での着陸、電気系統が停止した状態での着陸、油圧系統が機能しない状況での着陸などである。最近のシミュレータは視界の表示や油圧による姿勢制御が高度に進化している。シミュレータは通常、実際の訓練用航空機よりも低価格である。

ドライブシミュレータ [編集]
ドライブシミュレータは実際の自動車の特性を仮想環境内で再現する。外的要因や条件を再現することで、運転者が実際の自動車を運転しているかのように感じさせる。訓練目的で使われることが多いが、研究目的でも使われる。

船舶シミュレータ [編集]
船舶シミュレータは、船員の訓練に使われる。特に大型の船舶や浚渫船などをシミュレートするものが多い。通常、船のブリッジに似せた形状になっており、窓には仮想的な外界の風景が投影される。

プラントシミュレータ [編集]
化学プラントのプラントシミュレータは、物理モデルに基づいて化学プラントの動的な挙動を模擬するものである.さまざまな条件における挙動を実現できるため,主に,プラントを運転するオペレータに対する運転操作の訓練に用いられている.

教育におけるシミュレーション [編集]
教育におけるシミュレーションも訓練の一種と考えられ、特定の主題に沿って行われる。ビデオを鑑賞し、問題の解決策を話し合い、ロールプレイを行うなどの手法がある。企業によるビジネス教育の一環としてもシミュレーションが採用されつつある。リスクのない仮想環境でビジネス戦略の実験をしたり、ケーススタディの学習における拡張手段として用いられる。

軍事教練におけるシミュレーション [編集]
兵士が行軍や歩兵戦闘などをシミュレーションするもの。OFPから発展したVBSが米豪等の軍で採用されている。

医療シミュレータ [編集]
医療シミュレータは、医療に従事する者への治療法/診断法/概念/意思決定についての教育の目的で、近年開発が盛んになってきている。医療シミュレータによる訓練は、単純な血液採取から腹腔鏡手術まで各種存在する。また、新型医療機器の開発においてもシミュレーションは重要である。医療シミュレータでもコンピュータが重要な役割を担っている。実物大の人形を用いたシミュレータでは、人形への薬物投与などによって適切な反応を示すようにプログラムされている。視覚をコンピュータグラフィックスで擬似する場合、触覚は訓練者の動作に反応するようプログラムされたフィードバック機器で再現する。この場合、現実性を増すために実際の患者のCTやMRIのデータを用いることが多い。より簡便なシミュレーションとして、ウェブブラウザで操作できるものもあるが、触覚は再現されず、キーボードとマウスで操作することになる[1]。

医療シミュレータとは若干意味が異なるが、偽薬を使った医薬の有効性の試験も一種のシミュレーションと言える。

経済・金融 [編集]
個々の人々は仮に自分の利益追求だけを求める単純なモデルと考えたとしても、社会全体としての動きを知る事は出来ない。単純が複数集まるとそこには、様々な性質が生まれるという複雑系であるためで、これもまた、コンピュータの膨大な計算のシミュレーションによって予想されうるものであるが、実際のところ株価や物価の変動など、経済の動きを予測することは容易ではない。

金融においては、コンピュータシミュレーションを用いてシナリオ立案が行われる。例えば、リスクを考慮した正味現在価値 (NPV) は計算方法は確立しているが、入力値は不明な場合がある。評価対象のプロジェクトの性能を擬似することで、シミュレーションによって様々な場合の NPV が求められる。

デザイン・都市景観 [編集]
コンピュータグラフィックス(CG)によって作成されたバーチャルリアリティ映像を、工業デザインや建築デザインの成果物を事前評価するのに用いる。例えば建築物や構造物による景観への影響を予測する景観シミュレーションの場合、実写風景の上で建物のCGと組み合わせたり、建物や背景の全てをCGで構築し、実際に建築した様子に近い景観を観察することが出来る。コンピュータの計算能力が実用に達するまでは、手作業により遠近法にそって書かれたパース画を作成し評価していた。

都市計画のツールとして都市シミュレータを使って、様々なポリシーの決定によって都市がどのように変わるかを把握することができる。大規模な都市シミュレータの例としては、UrbanSim(ワシントン大学で開発)、ILUTE(トロント大学で開発)、Distrimobs(ボローニャ大学で開発)などがある。都市シミュレータはエージェントに基づくシミュレーションが一般的で、土地の利用計画や交通機関などが入力として設定される。

景観シミュレータと都市シミュレータの開発を行う研究分野は、一般的に計画支援システムと呼ばれている。

工学(技術)シミュレーションとプロセスシミュレーション [編集]
シミュレーションは、工学システムや多くのプロセスから構成されるシステムの重要な機能である。例えば電子工学では、遅延線を使って実際の伝送線路における遅延や位相のずれをシミュレートする。また、擬似負荷(ダミーロード)を用いてインピーダンスのシミュレートが行われる。シミュレータは一般にシミュレート対象の一部の操作や機能だけを擬似する。一方、エミュレータは対象の全機能を擬似するのが一般的である。

多くの工学シミュレーションは、数学的モデルを用いて、コンピュータを利用して行われる。しかし、その数学的モデルが信頼できない場合も多い。流体力学のシミュレーションは数学的なシミュレーションと物理的なシミュレーションの両方を必要とすることが多い。この場合、物理的モデルは動的相似性(Dynamic Similitude)を要求される。物理的シミュレーションや化学的シミュレーションは、研究目的だけでなく、具体的な実用目的を持つ。例えば、化学工学におけるプロセスシミュレーションによって得られたプロセスのパラメータは、石油精製などの化学工場の運用に即座に活用できる。

生産技術・オペレーション・オペレーションズリサーチの分野でよく使われる離散事象シミュレーションは、様々なシステムのモデル化に使われる。例えば、ビジネスにおいて各個人が30のタスクを実行可能で、数千の製品やサービスがあり、各製品/サービスには数十のタスクを逐次的に行う必要があり、顧客がどの製品/サービスを求めるかは季節によって変動したり、将来的に変化していく。このような状況をシミュレーションすることで経営上の様々な意思決定の助けとなる。関連する事項として、制約条件の理論、ボトルネック、コンサルティングなどがある。

テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

2009年03月27日

ヴェルダン条約

ヴェルダン条約(?じょうやく、独Vertrag von Verdun)は、843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めた条約。
この条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国が誕生し、それぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が形成された。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

帝国整備令 [編集]
814年に カール大帝が歿すると、彼の後を継いだルートヴィヒ敬虔王(Ludwig der Fromme)は817年、「帝国整備(計画)令(Ordinatio Imperii)」を発布。長男ロタール(Lothar)を共同統治者とすると共に、ロタールには王国本土を、次男ピピン(Pippin)と三男ルートヴィヒ(Ludwig)にはそれぞれアクィタニアとバイエルンとを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。

フランク族には「領土相続権を長子のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。帝国計画令は、この分割相続の理念と統一国家維持の理念との妥協点を見出すために発布されたものであった。

争奪 [編集]
しかし、823年に第2妃ユーディットとの間に末弟カール(Karl)が誕生すると、彼を偏愛する敬虔王はカールが不利益を被ることを避けるため、831年、国土分割的理念を新たな統治案に盛り込み、カールにも領土を与えることを決めた。

ロタールら3兄は、手中に収まるはずの領土が削減されたことに不満を募らせた。 リヨン大司教アゴバルト(Agobard)ら有力聖職者もこの案に反発した。統一王国の理念を奉じ、832年に3兄が敬虔王への反乱を企てた際には、これを支持。翌833年に敬虔王は廃位された。しかし、その後行われた3兄間の取引は決裂、更に834年に復位を果たした敬虔王は、なおもカールに有利な分割案に執着した。この相続争いは、838年にピピンが死去したことにより、一層激化した。

妥結 [編集]
840年に敬虔王が薨去するに至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。841年、フォントノワの戦い(Schlacht von Fontenoy)で3者は会戦。王国全土を領有せんとするロタールに対し、ルートヴィヒとカールは同盟を結び、ロタール軍を撃破した。更に翌842年、ストラスブールの誓約(Serments de Strasbourg(仏)、Straßburger Eide(独))で2人は同盟関係を再確認、国土の分割をロタールに迫った。こうした圧力の結果、843年8月10日にルートヴィヒとカールはヴェルダン(Verdun)において、王国を3分する案をロタールに呑ませた。ロタールの野望はここに潰えたのである。

内容 [編集]
条約の本文は散逸しているが、同時代の年代記によってその概略が伝えられている。

ロタールは中部フランク及びイタリア北部、それに西ローマ帝国皇帝の位を獲得。皇帝ロタール1世を名乗るが、宗主権は失った。またルートヴィヒは東フランク王国を獲得して国王ルートヴィヒ2世(ルイ2世)を、カールは西フランク王国を獲得して国王シャルル2世(禿頭王)(カール2世)を名乗った。

このうち中部フランクは、ロタールの名を冠するロタリンギアやアルザス、ロンバルディア、ブルグントより成る。なお、仏語の「ロレーヌ(Lorraine)」、独語の「ロートリンゲン(Lothringen)」は、ロタリンギアに由来する。

ロタールの死後、この地を巡って領土問題が再燃。870年のメルセン条約(Vertrag von Mersen)で一応の帰結をみるが、その後も仏独間の外交問題としてくすぶり続けた。

同条約は、分割相続というフランク族特有の概念を色濃く反映した結果であり、これによりフランク王国は事実上解体された。


2009年03月12日

ドーム(Dom)は774年に前期ロマネスク建築

最初のドーム(Dom)は774年に前期ロマネスク建築によりメンヒスベルクの山裾に創設されたもので、司教聖ヴィルギリウスが大聖堂を献堂し、そののちの図書館や学校の基礎となった。その後の数世紀、教会はその影響力をたえず広げようとし、寄進や寄付あるいは特権によって守られた宗教的な地位を、世俗的な権力を強めるためにも活用した。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

2度目のドームは、1181年から1200年ころにかけて後期ロマネスク様式に改築された。アルプス以北では唯一、身廊が5つあるバシリカ様式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。一領主である司教がこのように優れた建築物を造ることができたのは、教会所有地の収入のほか、ハラインの岩塩採掘、タウエルンの金採鉱での収入によるものであった。

今日のザルツブルク大聖堂は、1628年にバロック様式によって建て直されたものである。ザルツブルクの歴史において最も華麗な祝典は、1628年の大聖堂の献堂式であったが、それは三十年戦争のさなかの出来事であった。イタリア出身のヴィンチェンツォ・スカモッツィ(1548年-1616年)の設計案が廃案となり、同じくイタリア出身のサンティーノ・ソラーリオ(1576年-1646年)によって設計された大聖堂は、ドームの乗る大理石の双塔をもち、ペディメントをはさんで構成されたファサードを特徴とする。

多数の彫刻によって装飾され、内装は光の効果をふんだんに利用しており、イタリアのバロック様式を取り入れた美しい建築で知られる。1万人もの人員が収容可能であり、大規模なミサがとりおこなわれ、また、ヨーロッパ最大のパイプ・オルガンを所蔵している。1961年に設けられた聖堂の鐘もドイツ語圏では最大のものである。1959年には改修を受けている。

この聖堂前を舞台に1920年以来、戯曲『イェーダーマン』が上演され、これがザルツブルク音楽祭のオープニングになっている。なお、この音楽祭の発案者は『イェーダーマン』の作者でもある世紀末ウィーンの文豪フーゴ・フォン・ホーフマンスタールであった。
大聖堂から少し離れた聖ペーター僧院教会の西側には、クレメンス・ホルツマイスターの設計により1960年に完成したザルツブルク祝祭大劇場(Das Große Festspielhaus in Salzburg)があり、ステージの規模は世界最大級をほこる。大劇場のこけら落としは、ザルツブルク出身のヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の「ばらの騎士」であった。

祝祭劇場は大劇場、小劇場、メンヒスベルク山の岩肌を削ってつくられたフェルゼンライトシューレよりなる。フェルゼンライトシューレはかつて夏季乗馬学校として利用されたが、現在は『魔笛』の上演などにおいて独特の舞台を提供している。映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)のコンテストの会場になったことでも有名である。

2009年02月23日

プラトン

プラトン(より正しくは「プラトーン」、希: Πλάτων / 羅:Platon / 英:Plato, 紀元前427年 - 紀元前347年)は古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

ディオゲネス・ラエルティオスによると、プラトンの本名はアリストクレスであるが信憑性は少ない。アカデメイアという名で学校を開いたため、プラトンの後継者はアカデメイア派と呼ばれる。プラトンとアリストテレスの思想は西洋の哲学の大きな源流となった。また、その理想とした社会像は共産主義におけるプロレタリアート独裁にも深い影響を与えたとされる。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作はそのほとんどが対話篇という方式を採っており、一部の例外を除けば師のソクラテスを主要な語り手とする。

初期のプラトンは『敬虔』や『勇気』といった古代ギリシアの伝統的な徳とは何か、それは教えられるものかどうかを探求したが著書の中では直接答えは与えられない。中期には世界を、目に見える現実の世界『現実界』と、そのもとになる完全にして真実の世界『イデア界』に分けるイデア論を展開した。

輪廻転生説を含むピュタゴラス学派の思想、特に幾何学を重んじる思想を学び、中期以降その影響が見られる。またパルメニデスなどのエレア派にも関心をよせ、後期対話編ではエレア派の人物をしばしば登場させている。

プラトンは初めて理論的に人間の心を考えようとした人物であり、魂の三区分説を以って人間の心の動きを説明しようとした。人間を霊魂(心)と身体(肉体)に分けて考えている。

なお、後述するようにレスリングが得意であったらしい。また、パンクラチオンを「不完全なレスリングと不完全なボクシングがひとつとなった競技である」と評した事でも有名。
プラトンは紀元前427年、アテナイ最後の王コドロスの血を引く貴族の息子として、アテナイに生まれた[1]。

祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが、体格が立派で肩幅が広かった(希: πλα?τύς。アルファベット表記:platys)ためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンにプラトンと呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。

若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前399年、アテナイの民主派によってソクラテスは、「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死する(この裁判の情景を描いたのが『ソクラテスの弁明』)。

この後プラトンはアテナイを離れイタリア、シチリア島(1回目のシチリア行き)、エジプトを遍歴した。このときイタリアで、ピュタゴラス派およびエレア派と交流を持ったと考えられている。

紀元前387年、アテナイ郊外に学園アカデメイアを設立した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。弟子にあたるアリストテレスは17歳のときにアカデメイアに入門し、そこで20年間学生として、その後は教師として在籍した。

紀元前367年、友人ディオンらの懇願を受け生涯に2回目となるシチリア島のシュラクサイへ旅行した。シュラクサイの若き僭主、ディオニュシオス2世を指導して哲人政治(大対話篇『国家』に示される)の実現をめざしたが着いた時にはディオンは追放されており不首尾に終わる。

紀元前361年、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ今度はプラトン自身、軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス学派の政治家アルキュタスの助力を得てなんとかアテナイに帰ることが出来た。哲人政治の夢は、紀元前353年にディオンが政争により暗殺されることによって途絶える。

晩年のプラトンは著作とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年ともいわれる)、80歳で死亡した。
一般にプラトンの哲学はイデア論を中心にして展開されるといわれる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であるとした。不完全である人間の感覚ではイデアをとらえることができず、理性によってのみとらえることができるとした。また、イデアの認識は、いわば忘却されていたものの想起 anamnêsis であって、その想起からはかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところのエロス erôs が生じるとした。

このためプラトンは、経験主義のように人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないためである。また、プラトンは芸術についても否定的な態度をとった。視覚でとらえることができる美は不完全なものであり、芸術はイデアの模倣に過ぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣に過ぎないものに人の関心を向けさせるものとして、価値を見出さなかった。

ただし、プラトンの著作の中でイデア論が明確に展開されるのは、中期の一連の対話編に限られる。晩年のプラトンがイデア論をなお維持していたかについては、「エイドス」(形)などのイデアの類義語をただちにイデア論と結びつけることが可能かどうか、「ある」(存在)の把握の差異などをめぐり、研究者の間で見解が分かれる。

2009年02月07日

アナキズム

アナキズムまたはアナーキズム(Anarchism)は、国家を廃絶し、自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立を主張する思想。社会主義の流れを汲むものもあれば、個人主義の流れを汲むものもある。日本語では、無政府主義と訳される。自由至上社会主義(Libertarian Socialism)も同意味。

アナキズム(アナーキズム)のシンボルカラーは黒。アナキズム思想の持ち主をアナキスト(アナーキスト)という。なお、日本では「Anarchist」自身は比較的厳密に「アナキスト」と、それ以外の第三者(研究者、反対者、他)は、適宜「アナキスト」「アナーキスト」と形容した。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

また、リバタリアニズムを徹底的に押し進め、政府のない自律的な自由競争市場を理想とする資本主義的な無政府主義思想はアナルコ・キャピタリズムという。アメリカ合衆国では米ソ冷戦後一部で台頭し、社会主義的なアナキストと、アナルコ・キャピタリズムの支持者との間で激しい論争が起こった。

「アナーキー」という言葉は、ギリシア語で否定を意味する接頭辞「a(n)」と、支配者、責任者などを意味する「archos」から来ており、「anarchos」または「anarchia」は「政府を持たないこと、政府が無い状態」を意味する。

アナキズムの理念的ルーツは古く、個々の、あるいは特定の思想家の信念や思想として生まれたものではなく、自由を求める歴史の中から、いわば精神の自然史というような形で生成してきたものだが、それを自覚した近代のアナキズムは、19世紀、フランスのプルードンの思想に始まる。続いて第1インターナショナルではプロレタリアート独裁を唱える"権威派"のカール・マルクスと、権力の集中を批判しアナキズムを主張する"反権威派"のミハイル・バクーニンが論争を行った。またインターナショナルの運営においてもマルクスは総務委員会の権限強化を主張し、それに対してバクーニンは諸支部の連合を主張し対立した。総務委員会のポストにあったマルクスは謀略的にバクーニンとバクーニンを支持するインターの各支部を除名し、第一インターナショナルを解体する。バクーニンは、アナキストによるインターをつくった。

革命運動史
第一インターの強力な支部を形成したイタリアは、バクーニンの影響を強く受けたマラテスタ、カフィエーロ、コスタなどの指導によりアナキズムが強力に根付いた。ロシアにおいては、ロシア革命(十月革命)後の共産主義政権の独裁に反旗を翻して蜂起したクロンシュタット軍港の水兵たちの運動や、ウクライナにおいて白軍を撃退したネストル・マフノ率いるマフノ運動の存在が大きい。モスクワやペテルスブルクなどの都市部においてもアナキストは、共産党の独裁に対する反対勢力として社会革命党左派(エスエル左派)とも連携し、非合法をも含む様々な活動を展開している。スペインもまたバクーニン以来、アナキズムの根強い地域であり、20世紀前半のスペイン内戦においてアナルコ・サンディカリズムを主張する労組(CNT/FAI)はフランコと対峙する人民戦線側では最大の勢力を誇り、各地で革命を起こしバルセロナ市では労働者による自治が行われた。また人民戦線政府の閣僚となったCNT/FAIに対して革命的アナキズムの路線を貫いたドゥルティや、「革命」とフランコとの「戦争」の二者択一のアポリアに対して「革命戦争」の方向を提示した「ドゥルティの友」の活動も看過してはなるまい。

19世紀末から20世紀前半にヨーロッパを中心にして、アナキストによる力尽くの体制排除を目的とした暗殺事件が世界中で多発した。当時の世界情勢は概ね帝国主義化しており、中には反帝国主義から事件を起こしたアナキストもいたと思われるが、しかし実際には効果が上がらず、第一次世界大戦以降は、体制並びにソ連などの共産主義によって弾圧されるなどして、アナキストの活動は収縮して行った。

近代日本
日本では、幸徳秋水がクロポトキンの影響を受けたが、大逆事件で弾圧された。大正時代に入り、ロシア革命が起こると、大杉栄の主張する、労働組合を基盤としたアナルコ・サンディカリスムが一定数の支持を得て、マルクス主義者(ボリシェビキ)との間にアナ・ボル論争と呼ばれる論争が行われたが、大杉は関東大震災後の混乱の中、甘粕正彦憲兵大尉により殺害された(甘粕事件)。

大杉の死後、主導的人物を失ったアナキズム運動は個人的な活動から組織的、社会的な運動となっていく。まず、八太舟三に代表される純正アナキズム(アナルコ・サンジカリズムは、サンジカリズムの影響を受けており不純なアナキズムであると批判する)が盛んになり、その後は、アナキズムとしては異例の強固な「党的志向」をもった無政府共産党や、全国的な農民運動として、歴史的には「農青イズム」と呼ばれた革命的地理区画を全国に樹立した具体的で実践的な農村青年社の運動が登場する。

戦後日本
太平洋戦争敗戦後のアナキストは寧ろプルードンの立場に近く、実力での資本主義制度を打倒よりも地域コミュニティ再建の実現を目指していた。戦後のアナキズムはアナルコ・サンディカリズム系の日本アナキスト連盟と、純正アナキズム系の日本アナキスト・クラブが啓蒙的活動を続けていたが、ほとんど影響力はなく、アナキズムは死んだに等しいと見なされていた。
そのようなアナキズムが蘇ったのは1968年から1970年にかけての全国的な学園闘争においてである。学園闘争の中心となった全共闘(全学共闘会議)はノンセクトであり、その組織形態もアナキズムに多い自由な評議会的なものであったことからアナキズムへの関心が芽生えることになった。東京のアナキストは連盟の後継の要素を引き摺り、学習会的・サロン的色彩を払拭出来ず(麦社)、それ以外もテロリスト的な小結社主義(背反社)の域を出なかったが、関西・大阪のアナキストは、小組織・小グループの傾向を離脱してアナキスト革命連合(ARF、アナ革連)という「アナキスト・ブント」とあだ名された統一組織を形成し、各大学や地域において強力な運動を展開した。関西の主要大学にはアナキスト連合の組織や支部が形成され、キャンパスにはアナキストの黒旗が翻り、一部では完全にマルクス主義者を凌駕していた。
戦後のアナキストとしては、詩人の秋山清や評論家の大澤正道らがおり啓蒙的著述を続けていたが、その後、向井孝は自身のミニコミ紙で非暴力直接行動論を粘り強く持論とし、フランスにいた尾関弘はダニエル・ゲランの翻訳を行った。またアナキスト革命連合の活動家だった千坂恭二は『情況』や『映画批評』誌などでバクーニンの思想をベースにブント的アナキズムを精力的に展開し、大島栄三郎は黒色戦線社を設立し八太舟三の純正アナキズムの普及に努めた。アナキスト以外では作家の埴谷雄高や映画評論家で『映画批評』編集長の松田政男、俳優の天本英世などがアナキズムに強い関心を示していた。

思想の多様性
ピョートル・クロポトキン政治思想としては、左翼に属する。しかし、その内容は多様であり、一個の思想というより、複数の思想の共通形態と言えよう。たとえば歴史上のアナキズムの古典とされるプルードン、バクーニン、クロポトキンの三人においてさえ、思想はまったく異質である。資本主義のシステムを批判したプルードンのアナキズム(プルードン主義、"無政府連合主義")はフランス流の合理的思考の影響を引き摺り、革命の運動論と組織論を展開したバクーニンのアナキズム(バクーニン主義、"無政府集産主義")はヘーゲル左派的なヘーゲル主義の色彩を色濃く残し、相互扶助による社会を構想したクロポトキンのアナキズム(クロポトキン主義、"無政府共産主義")は徹底して反ヘーゲル的である。彼らに共通するのは思想内容ではなく、自由を強固に求めるというアナキズム的傾向であろう。

マルクスはプルードンを根強く、酷く批判し、またバクーニンとは第1インターナショナルにおいて激しく論争した。そのためバクーニン以後のアナキストは自らを「反権威主義者」と位置づけ、マルクスを「権威主義者」として批判し、マルクス主義者は第二インターナショナルにおいてアナキズムを敵視した。このため伝統的なアナキズム思想史やマルクス主義思想史ではマルクスはアナキズムと敵対的と見なされているが、しかしマルクスもまた国家についての究極的立場は「国家の死滅」であり、その意味ではマルクスの思想もまたアナキズムだともいえる。さらにマルクス以前の、やはり権威主義的傾向とされるブランキもまた到達すべき社会は「規則ある無政府」であるという。これは無秩序としての無政府ではなく、固有の秩序を持つ無政府のことであり、それを求めるブランキもまたアナキストであるといえなくもない。アナキズムを一個の党派的思想ではないとするならば、旧来の思想史的理解に対して、マルクスやブランキ、さらにはバブーフをも含むアナキズムの思想史的理解が必要ではないだろうか。

ジョルジュ・ソレルアナキズムは思想体系というよりも思想傾向ということから、アナキズム以外の思想にも様々な影響を及ぼしているが、もっとも有名なのは、アナルコ・サンディカリスムのような、労働運動と結びついたアナキズムの影響を受けたフランスの思想家であり、ファシズムにも影響力を持った『暴力論』の著者であるジョルジュ・ソレルだろう。
また、これらの社会主義的傾向のアナキズムに対して、個人主義的傾向のアナキズムがあり、その代表としてヘーゲル左派の出身で、ヘーゲルの「絶対精神」を自我の所有するものと捉え、独我論的なまでに「自己」の絶対自由性にこだわったマックス・シュティルナーがいる。

通常、アナキズムは、一個の政治思想としてはマルクスの共産主義よりも「左」に位置する極左的思想と見られている。しかし、そうした政治思想としてではなく思想や精神の形態として見れば、さまざまなタイプがある。プルードン、バクーニンからマラテスタやヨハン・モスト、エーリヒ・ミューザムまで左翼や極左としてのアナキストは有名だが、「右」に位置付けられる人々にも精神形態から見ればアナキスト的傾向が存在する。例えば、「保守革命のアナキスト」(H-P・シュヴァルツ)といわれる後期のエルンスト・ユンガーや、フライコールに参加しコンスル(執政官組織)の一員でもあった「プロイセン的アナキスト」といわれたエルンスト・フォン・ザロモンがいる。

ノーム・チョムスキー
マサチューセッツ工科大学教授・言語学者・思想家アメリカ合衆国ではリバタリアニズムが保守本流であるが、厳密にはアナキズムではない(アメリカの保守派である共和党は、中絶、同性結婚などに反対の立場をとっており、この意味では社会的自由を唱えるはずのリバタリアニズムも彼らには当てはまらない。リバタリアニズムを掲げる代表格であるロン・ポールも強く中絶、同性結婚に反対しており、個人主義を認めないという点でこの名称には当てはまらない)。

アメリカ人にとってアナキズムは共産主義と並ぶ反体制派の思想と見られており、保守派の間でもアナキーはフリーダムと区別されており、かつ批判的ないし軽蔑的に使用されている。ドイツでは近年、政府だけではなくあらゆる労働をも否定する「ポゴ無政府主義」が提唱され、1981年にはドイツ無政府主義ポゴ党が結党されている。

2009年01月22日

文化人類学の諸分野

文化人類学の学問対象および資料は以下の通りである[3]。

 フィールドワーク(実地調査)などの方法論、学説史
 民族史(エスノヒストリー)
 言語
 自然環境、生業(狩猟、漁澇、牧畜、農業)、衣食住、民具、技術、芸術など
 婚姻制度や家族・親族の構造、社会・政治・経済の仕組み、人間関係、さまざまな集団の成り立ち、伝統、習慣と制度など
 宗教・信仰・呪術・儀礼・祭礼など
 神話・伝説・民話など
 民謡・音楽・舞踏・劇など
 都市における諸問題、都市文化や文明の影響による変化など
 躾や教育の仕方、人格形成と民族・国民性の特色、文化の変化と心理的適用、精神衛生など
 その他(映像人類学、民族映画学、認識人類学、医療人類学)

文化の定義
後天的に獲得されたものであって、生物として、人が持っている遺伝形質ではないもの
歴史的に形成され、維持・変化してきたもの
ある集団の中で、その集団のある成員から、ほかの成員に『記号』を通して伝達されるもの
ある集団の中で、個人的なものではなく、ある集団の成員に多かれ少なかれ共有されるもの
(以上をふまえて)文化というのは集団の成員や、集団自体を形成・維持するための、あらゆる生活様式、ないし思考様式と、その具体的要素を含む
とされる。が、西欧的思考による猿の文化を否定するための定義と言えなくもない。

フィールドワークとその弊害
数ヶ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、その集団の構成員の一員として生活する参与観察は、《実地調査》の1手法である。フィールドワークには、観察、参与観察、面接《インタビュー》、心理テストなどの手法がある。

フィールドワークにおいてどんな調査結果が得られるかについて、調査する者の価値観、調査対象を好きか嫌いか、調査者と調査対象の間に生まれた関係(ラポール、rapport)、などが関係するところが、文化人類学が持つ課題である。日本に於いて、複数の地をフィールドワークすることが学問的に好ましいが、多くの人類学者は大学院生時に行ったフィールドワークの対象社会を生涯にわたって研究することが多く、それは社会的な制約(大学の講義等)により複数の社会を対象とすることが困難であるからであることが言える。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム


さらに1970年代頃から、調査される側の迷惑、調査する側の倫理、が課題として取り上げられている。ベトナム戦争時にはCIAからの資金で盛んに文化人類学者がベトナムの地で活動したことが有名であり、多分に研究成果が戦争利用された。アメリカ人類学会には倫理委員会 (Committee on Ethics) が設けられ、1975年に綱領「職業的責任の原理」が、1984年に「倫理コード」が作成された。日本では1988年の第25回日本民族学会研究大会にてシンポジウム「民族学と少数民族-調査する側と調査される側」が催され、これをきっかけに研究倫理委員会が設置された。

文化人類学者による研究成果は、経済活動や戦争に十分利用できてしまう価値を持ち、研究の種類によっては調査される側に相当のダメージが及ぶことがある。そのため、多くは村名等を仮名・匿名で発表することによって被害発生の防止を図るが、現実的な効果は薄いのが現実である。

2009年01月15日

西洋の説話では、竜を殺し囚われの姫を救出


セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ
心理学的には、浦島太郎の伝説は非常に日本的な風土を表していると分析される[5]。それによると、水底の蛇や竜は母親を象徴するものである。西洋の説話では、竜を殺し囚われの姫を救出して結婚する、という筋書きになる(古代バビロニア神話の女神ティアマト、ギリシア神話のアンドロメダにまつわる物語を参照)。これは象徴的な母親殺しであるという。つまり、母親の影響を廃して男子は独立する、ということを意味するものである。それに対して浦島太郎はその竜の住み処で姫と暮らしてしまう。これは、男性が母親の影響を断ち切ることなく成人してしまう日本的なあり方を示しているというのである。

ゆかりの神社仏閣
観福寿寺(神奈川県横浜市神奈川区) - 明治時代に焼失。また、乙姫が枝に光を照らした松も大正時代に枯死。慶運寺に聖観世音菩薩像が現在も残る。
浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町) - 浦島伝説の中では最も古いとされる『丹後国風土記』逸文ゆかりの地域にある。社伝では天長2年(825年)に創建。丹後半島にはこのほかにも浦島伝説に基づく神社がある。
浦島神社(香川県三豊市) - 荘内半島一帯には、太郎が生まれたという生里、箱から出た煙がかかった紫雲出山ほかたくさんの浦島伝説に基づく地名が点在している。太郎が助けた亀が祀られている亀戎社もある。
寝覚の床・臨川寺(長野県上松町) - 寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建つ。臨川寺は、浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵する。境内からは景勝寝覚の床を見下ろす。

派生

唱歌
文部省唱歌「浦島太郎」は、1900年の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵)と、1911年の『尋常小学唱歌』に掲載された「浦島太郎」(作詞・乙骨三郎、作曲者不明)とがある。現在でも歌われている「昔々浦島は助けた亀に連れられて」で始まる歌は、『尋常小学唱歌』の「浦島太郎」である。

ウラシマ効果
物理学者アインシュタインの相対性理論によれば、運動している物体の経過時間は、静止している物体の経過時間に比べて相対的に遅くなる。この現象は日常的には判らないが、光速に近づくと顕著になる(理論的には、光速に達すると時間は止まってしまうことになる)。そのため、光速に近い速度の宇宙船に乗って宇宙旅行をして帰還すると、地上では宇宙船での何倍もの時間が経過しており、宇宙船の乗組員は、さながら浦島太郎の様相を呈することのなる。そのため、この効果のことを俗にウラシマ効果と呼んでいる。(物理学用語ではなく、ふつう「ウラシマ」と片仮名表記する)。

複数のSF作家(豊田有恒など)がこの話を浦島太郎が宇宙人に攫われ、亀(宇宙船)に乗って、竜宮城(異星)へ光速移動したために地球との時間の進み方にずれが生じたとする解釈を提示している。

「浦島太郎(花子)状態」
竜宮城から故郷に戻るとまったく見知らぬ土地になっていたという浦島太郎の立場になぞらえ、長い間離れていた所に久しぶりに戻ると別世界になっており面食らうことを「浦島太郎である」「浦島太郎状態にある」などと言う。女性の場合は浦島花子(うらしまはなこ)。「日本国外に住み日本の流行に疎くなったり違和感を覚えてしまう」「出向先から戻って本社の変貌ぶりにまごつく」「世間から離れていたために時事ニュースや新しい技術を知らず、時代に取り残されたと感じる」などの状態を自虐的に表現する際に用いる。

精神病院に長期間社会的入院を強いられていた患者が、退院した場合このような困難を経験することがあり、退院の際には入念なカウンセリングとトレーニングを受ける必要がある。これは長期間服役して出所した受刑者にもありえることである。

テレビ CM
ヴァリグ・ブラジル航空は、自社のサンパウロ - 羽田線のテレビ CM をブラジル国内において放映したが、これには浦島太郎をモチーフにしたストーリーが付加されていた。この CM は日本人の目からすると、若干違和感を覚えさせるものである。