こうして金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の大臣であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。
その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金はこれに対する懲罰を名目として再度の南征を開始し、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。
1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉とし、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力後退の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
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これより前、1149年に先代の熙宗を殺して帝位についた4代海陵王は宗族や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、都を会寧から燕京に遷都して中央集権国家樹立を目指す改革を進めていた。1161年、海陵王は中国の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。金軍は60万と号する大軍であったが、慣れない水戦に苦戦した。その間に各地で契丹族の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても強硬に宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有職者たちが東京(遼陽)にいた皇族の烏禄を擁立し、金の人々は雪崩を打って烏禄に味方した。海陵王は軍中で殺害され、烏禄が即位して世宗となった。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、和約を結んだ(乾道和約)。そして契丹族の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。
同時期に南宋でこちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、この後40年に渡って両国の間では平和が保たれたので、金は繁栄と安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小尭舜」と称えられた。だが、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。
しかし平和が長引き、女真人の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は漢化の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、四書五経などの漢文献の女真文字へ翻訳・女真語による科挙の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。